祈願と感謝のこころ

秦霊性心理研究所

所長 はたの びゃっこ


今回は、神道の祭祀とその背景にある人間の宗教的感情について考察を加える。神仏に対する信仰とは、自分を越えた大いなるもの、神仏とでも呼べるような宇宙の働きに対して畏敬や崇敬の念を持つことから始まる。畏敬の念や崇敬の念は、わたしたちの祖先がまだ大自然の脅威にさらされて細々と暮らしていた頃から培われてきた原始的(素朴な)感情である。

当時の人間は森羅万象に隠れ身のカミの気配を感じており,いつもカミと共に生きているという実感を持っていた。自分たちが喜べばカミも喜ぶ。悲しいとき、辛いときは気持ちを切り替え、気持ちを奮い立たせるために大騒ぎをする。

自然という名のカミと苦楽を共にしていた時代がかつてあった。

自然に対する畏怖の念。自然に生きること。いつ気が変わるかもしれないカミに翻弄されながらも,精一杯生きてきたのが、われわれの祖先の姿なのである。

このように、大昔の人々はいつも自然=カミの振る舞いに一喜一憂しており、ビクビクしながらも精一杯意地を張って生きていた。そういう暮らしの中で、自然に私たちは宗教的感情(心情)を抱くようになっていった。


神道には特別な教義も理論もないが、その祭祀の歴史を振り返っていくことによって、信仰の核心に迫ることが出来る。

祈願と感謝

人間の持つ感情の中で、祈願と感謝は、そのもっとも純粋な精神であり、それは絶対的な神の無限な生命力に対する信仰からわき出る感情である。現実を単なる現象として見るにとどまらずに、その中に神の大いなる無限の恩恵を感受するときには、その根源となるものを信頼しようとする心が生じる。上記を自覚することが信仰の第一歩である。


あらゆる事象を神の証示、霊験、賜物、福徳とする信仰に立つ者にとっては、生活環境が生き生きしたものに感じられてくる。この天地自然の中から神の恩恵を見いだすことは元々人間の心の持ち方によるものである。信仰の体験を日々の実践の中で豊かなものにするにつれて、生活環境がみな神の恵みとなって蘇生する。

これに対し、生活の空虚さを愚痴る人は人生に対する情熱の乏しさを告白しているのと同じである。全自然の創造力をもって神の霊的活動と、それを感受する人間の心の持ちようによって、この人生のすべてが神に対する信頼に変化する。この信仰の仕方は、決して権力者にすがるような依存心ではなく、神を信頼する個人の積極的な精神力である。

それはかつて、人心に覆いかぶさっていた宗教の権威が、その教義として立てていたような、人間と対立した神の観念ではなく、神と人間が「一と多」の関係で大きく調和している状態を意味する。一がなければ多も存在せず、多がなければ一もまた存在し得ないのである。このように、神と人間との関係は相互関係である。

このように、神と人間との関係を有機的な組織(細胞組織にたとえることもできる)として確信するとき、人間はここに大きな回心を起こすことになる。それが第二段階の信仰へと発展していく。それは心の大転換である。

現代の日本人が忘れてしまった「精神力」=精神的支柱の欠如は深刻であるように思う。物質主義がその空隙を埋めているようにも見えるが、私欲物欲を満たしたとしても、それは決して満たされることのない欲望である。欲を満たすことだけを追求してみても、心の安寧や精神的な満足感に至ることはない。自分が終わりのある人生で得たものを失うことを恐れ、年輪を重ねるにつれて一層強欲になって、やがて死の足音が近づくと何も得るものはなかったと後悔するだけである。


日常や俗の中に<聖>を見いだすことの重要性、実践と体験の重視、そしていわゆる霊的な感受性を取り戻すことの意義についてさらに考えてみよう。


前述したよう に、神に対する信頼と心の転換(回心)が祈願と感謝の前提条件となる宗教的心情である。さらに、論を進めていくと次のようなポイントが指摘される。


心構え

このような心の持ち方は、いつでも誰にでもできる事で、むしろ人間の本性なのだが、多くの場合、自覚がない。祈願と感謝は自我の内的欲求と外界からの刺激、環境の変化によって 様々な働きを起こす。その内容は複雑で希望、欲求、尊崇、讃仰、讃美、崇拝、反省、告白、悔悟、懺悔など様々である。しかし、これらの感情の終極するところは、人間が生きるための心構えなのである。

いわば、神の恵みを受容する気持ちを明確にすることであり、そこには必ず感謝の心が伴ってくる。この感謝の心の中に、あらゆる人間的感謝を融和していくところに「真の祈願」のあり方がある。

祈願の本質

元来、自我・生命の拡充という祈願の精神は人間の持つ本性である。この世界に自己が実在することを自らがはっきりと信じる事が肝要である。このとき、初めて希望や努力の気が起こり、また生き甲斐も湧いてくる。

人類の進歩も文化の向上もこの精神力に基づくものである。以上のことから、祈願は人間の精神にいつもみずみずしい活力を与える創造の泉となる。

人間の祈願がもっとも純粋に高められるときは「生が抹殺されようとするとき」にやってくる。すなわち、人間、自分が生存の危機的な状況に陥ると神の存在が意識されるようになる。のっぴきならない状態にまで追い詰められた人間は、他の欲求は消え失せて、ただ「生きる望み」だけが残る。つまり、それは「宇宙生命」に直面するからである。この本源の生命に没入する機会を得ると言うことが、最も大切な宗教的体験なのである。

このような体験は、修行の過程での限界状況で体験されることもあるし、人生の危機に直面して絶体絶命にまで追い詰められたときにも生じる。さらには、医療・保健分野との関連で言えば、終末期に至った人々の「生きる意味と目的」、「希望」の問題にも通じる。

祈願と感謝の関係

要するに、祈願は神と人との親しい交感であり、神霊の達しうるもっとも神秘的な体験である。しかも、この体験には常に感謝の情が伴う。感謝の心なしではいかなる祈願もその純粋さを保つことはできない。

いわば、感謝の情は、祈願という精神の泉を常に清らかに保つための浄化作用である。それは常に祈願の裏づけになるものである。

神道の祝詞の精神は、元々は、この祈願と感謝の気持ちを、ごく素直に表現したものである。感謝の心というものは、無理矢理に、あるいは努力して生じるものではなく、人間が古来より持っていた自然な感情であり、恩恵を感じるときに自然に発生するものである。その究極が「生命の源泉」に還ろうとする感情であり、神秘的なもの、高貴なもの、根源なるものを求めようとする精神作用である。

ここまでの結論

「生きる力」は祈願によって強められると同時に、感謝によって強化されうる。この 2 つの精神作用は生活上のあらゆる実践の原動力となる。祈願と感謝が相互作用しながら信仰の熱情は高まり、清まる。

私たちが素直に自分の身に感謝するのは、父母を通して遠い祖先への敬愛となるものである。生活できることに私たちが感謝するのは「社会奉仕」となり、また「人類博愛」の源流となる。それらが収束する先は、全自然の恵みに対する感謝の心に他ならない。

初詣などで、あれが欲しい、これも欲しいと自分の都合で神頼みする人がいるが、いくら賽銭を投げて「にわか祈願」をしたところで何の効果もない。


それは「信仰の下地」ができていないからである。祈願の基底に上記のような身近な他者、遠い祖先、社会への奉仕精神、人類愛、自然や宇宙からの恵みに対する感謝の気持ちが伴っていないからである。

また、「生きていてよかった」と感じる経験は誰にでもあるだろうが、それが上記の感謝の気持ちにつながっていないと、一瞬だけのピーク体験で終わる。

自戒の意味も込めて、自分の心構えを常時モニタリングするように日々の実践を行っていきたいものである。

ここまで人間の持つ様々な意欲、願望は感謝の心によって浄化されるという事を述べた。そして、ただの祈願だけでは何も効果がないとも述べた。 感謝の心を持つことによって「慈愛」、「反省」、「謙虚さ」の徳を積み、自己浄化が生じるというプロセスがそこにはある。 

秦霊性心理研究所

当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。