伝統霊性の崩壊

秦霊性心理研究所

所長 はたの びゃっこ


最近特に思うことだが、神社や仏閣で何をどのように振る舞えばいいのか、分かっていない人が多い。そこは基本的に「祈り」の場である。自分自身と向き合い、自分という 存在を生かしてくれている人間を超えた大いなる力を実感し、生きる力をいただいて帰るための場でもあると思う。

率直にいえば、神仏の前で素朴に、素直に、誠実に自分自身を開放して、人間を超えた大いなるものに接することができるなら、ただの形式にとらわれる必要はないと思う。だからといって、形式を全く無視してしまっていいかというと、それは間違いである。

たとえば、神社にお参りするために行って、拝殿で頭も下げず、拍手する代わりにいきなり合掌したりする人がいる。あるいは境内でつばを吐いたり、ゴミを散らかしたり、大声を出したりして、しっかり頼み事だけはして帰り、御利益だけを要求する人もいる。こういうのは、参拝とはいわないのである。神社に参って祈るには、それなりの礼儀・作法というものがある。

形式や作法をまずしっかりとマスターした上で、自分のオリジナリティを追求するならともかく、何もわかっていない状態で闇雲に祈ったり、神頼みをしても意味はない。一つ一つの型や作法の中に、神々と接するときの構えはプログラムされているためである。さらにいえば、作法に沿った行いを通じて、自然と神々に対する態度、信念が強化されていくこともまた事実である。そうやって、自分の精神的な支柱というものが形成されていくのである。

これも、神道や仏教といった既成宗教の形骸化が進み、神職や僧侶が、自分たちが世俗とはかけ離れた世界に住んでいることにさえ気がつかないようになっていること の表れではないだろうか。古き良きものをそのままの形で継承することにも意義はあるだろうが、それがただの古典になってしまっては、存在そのものさえも成り立たなくなることに気づく必要がある。既成宗教の側から社会に向けて言挙げしていかないと、そもそも神社や仏閣は何のためにあるのか、それが信仰の場、人々の精神的支柱を打ち立てるための場であることさえも忘れ去られてしまう日は、そう遠くはないだろう。


時流をしっかり見定めて、古いものを今の時代の要請に合うようにアレンジしていく努力が、既成宗教の継承者には求められている。残念なことに、神道や仏教は中世以後、突出した理論家や思想家を産み出していないと思う。仏教については、深い洞察に根ざした理論体系(深層心理学)が存在するが、それを今の時代の人々のこころに響くような形で、しっかりと伝える人物がこの国はほとんどいない。葬式や法要の時だけお経をあげに来て、もらうものだけもらって黙って帰る丸儲け主義の僧侶ばかりがやたらと目につくのは気のせいだろうか。

一つ私が経験したことを述べておこう。以前、休暇を利用して高野山に巡礼に行ったことがある。重い病の床にある人の家族から、高野山の奥の院に本人の代わりにお参りに行ってほしいと頼まれたからである。車を駆って片道7時間、往復1000キロを超える行程を1泊2日でこなした。 師走の高野山は、下界とは比べものにならないくらい厳しい寒さに包まれていた。

宿坊に宿泊し、刺すような痛みが走る冷え込みに身を縮めながら、朝6時に起床した。 6時半から勤行があるというので、コートを羽織って本堂に向かう。ところが、本堂には電気もついておらず、僧侶の姿もない。やがて、他の宿泊客もやってきたが、一向に勤行の始まる様子もない。お互いの顔を見合わせて「おかしいですね。今日はやらないのでしょうか」と会話を交わす。

これは、セルフサービスで拝めという意味なのだろうと理解して、私はロウソクに灯をともし、本尊の真言と般若心経を唱えて、一心に祈りを捧げた。宿坊の中庭には鳥居も見えたので、そこにも参拝し、神道式で鎮守の神々に向かって拝んだ。冷え切った空気に身も引き締まり、とても清々しい気持ちになった。

この宿坊には以前にも宿泊したことがある。そのときには、丁重な接待と真心のこもった僧侶の読経を聴くことができて、深い心の平安を得る経験をしている。その後、どのような事情があったのかは知らない。そのときの若い住職様や、そのご母堂様の姿も見えなかった。それだけに、残念な思いで私の心はいっぱいになった。

仏教や神道など既成宗教の形骸化の問題は、人々に心の平穏や生きる力を与えるという精神的、霊的な支援力を着実に弱めていくことにつながると私は思っている。現世利益のための祈願や先祖供養などのビジネスとして、既成宗教は細々と生き残るしかないのだろうか。最近、寺院や神社の「経営」が苦しいという声も私の耳には届いてくる。が、お金のやりとりだけで成り立っているのが現代の寺院、神社なのだろう か。人の心を癒す場として、さらには人間を超えた大いなる存在を身近に感じられる場として、宗教者の方から意識改革を図らないと、庶民の宗教離れは一層加速していくであろう。

地方の寺院については、過疎化や高齢化、少子化の影響を受けて、檀家がいなくなり、先祖の墓を守る子孫も全国に散らばって、故郷を顧みなくなり、やがて住職もいなくなって、放棄されるお寺も多いという。お寺が地域の中から浮いた存在になり、信者を引きつける魅力も失って、人々のこころを癒したり、元気を取り戻させたりする場でなくなっていることは確かだろう。

同じ事は神社神道にもあてはまる。神道の理論は旧態依然たるものであり、江戸期の国学の影響を受けた流れが、今でも続いている。化石化した理論や知識は、今の時代には通用しない。祭祀を継承するだけが神職の勤めなら、そこからは何も人々の生き方、ライフスタイルに影響を与えるような智慧は生まれては来ないのである。

今の神社神道は、霊性を失っており、形骸化、形式主義に陥ってしまっていると私は思う。日本の神々は基本的に「やほよろづの神々」であり、どのような神様でも取り込んでいく習合的な性質が神道にはある。私は、誰が何を神として祀っても、崇敬してもよいと思う。

だが、霊性の概念には、人が超越的な意識の次元とふれあい、その中で内なるカミ、外なるカミを感得する体験様式が根本にある。個人の体験が宗教意識のもっとも中核的なものなのだ。こうした自己超越的な意識の拡張を「カミを感じる」ことで進めていくのが、「カミへ通じる道」=「神道」であると私は考えている。

これに対し、今の神社神道は、「こころ」や「たましい」といった問題、そして人間存在の霊的な次元について人々が持っている要求に応えているのだろうか。私は、一般の神社に奉職するために必要な基礎資格も持っている立場でもあるので、今の神社のあり方について、危機感を覚える。お守りやお札、おみくじを売るだけの「販売所」が神社なのだろうか。観光資源として大勢の「観光客」を呼び込み、多言語表記のお神籤をインバウンド向けに売るだけの場所が神社なのだろうか。

カミが不在の神道なら、今世紀中に神社は衰退し、消滅してしまうことだろう。祭りごとを「政」と読み替えるような復古調のスローガンが、果たして今の大衆化社会に支持され、共有化されるであろうか。時代の流れを読み違えるようなことをしていると、必ず神社神道は没落していくであろう。

一方で「神様大好き」という軽いノリで神社巡りを楽しむ人々がいる。私は、これでよいと思う。個人が自分の感覚を大事にして、神社巡りを楽しみ、心身をリフレッシュし、癒される体験を持つことから霊性感覚は発露する。神社に参拝したときに、魂が揺さぶられるような感動を覚えたり、深い心の平安を味わうことが、霊性感覚を強める上で有益であると思う。

21世紀の神社は、そうした神様大好き、神社大好きな人々が集って、「こころ」を 通わせるための「霊的コミュニティセンター」へと脱皮していくことが求められているのではないだろうか。そういう新しい取り組みを始める神社がどんどん出てくれることを期待したい。

人々の宗教意識は今や来世信仰から現世利益信仰へと大きく変わってきている。死んでしまったときのことよりは、今をどう生きるかの方に重心が移ってしまっているのである。そのニーズに対して、既成の宗教は無力になっている。そして、都市化してしまった現代の日本では、人の宗教との関わり方も表面的で部分的、一時的なものになっている。人と神仏との関係性は、TPO に合わせたニーズにかなった個人的なものになってきているのである。厚い信仰を持っている日本人は、少数派だ。しかも、若年層ほど信仰というものと無縁になっている。こういう現状に対 して、宗教離れが著しいと嘆いているだけでは、何も問題は解決しない。人々の宗教意識の変化を敏感に受け止めて、それに呼応するようなサービスを展開できなければ 「ビジネスとしての宗教」さえも立ち行かなくなってしまうほどに、今の宗教界は追いつめられているという認識を持っておいた方がよい。

霊性を喪失した宗教は、新しいものを創り出す力を失い、単に伝統を維持するだけの「システム」でしかなくなっている。そんなものにすがっても、救いも癒しも得られないだろう。だから、いつまでたっても意識の変わらない宗教者には、もう見切りをつけて、次なるステップに歩を進める必要があると私は思う。人を癒せないカウンセラーの門をたたくのと同じように、神と人との取り次ぎもできない神職、物欲にまみれて肥え太り、人生いかに生きるべきか説得力のある説教もできない僧侶のいるような場所に足を運ぶのはもうやめにした方が良いのかもしれない。 

秦霊性心理研究所

当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。