罪・穢れ・祓い

秦霊性心理研究所

はたの びゃっこ

大祓詞(おおはらえのことば)は、別名を中臣祓詞(なかとみのはらえことば)とも呼ばれる。この祝詞は「日本書紀」や「古語拾遺」にも見られ、少なくとも奈良時代以前から存在しているもっとも古い部類に属す祝詞である。神社で唱えられる祝詞の代表格であり、祭に際しては必ず奏上される祝詞である。仏教では般若心経が定番の経文であるが、神道の定番祝詞といえば大祓詞である。

この900字の詞の中に、日本人の信仰の本質が見事に集約されている。以下に、大祓詞の肝心な点をまとめていくことにする。

 1.<祓ひ>とは何か?

穢れを祓って清浄になることであり、その究極の清浄とは、神から授けられた本来的自己、神の心に還ることである。特に、人間が直面する死の問題を契機として、本来の自分とは何か、人生どうあるべきかを神の救済力を通じて自覚していくことが<祓>の意味である。もう一つ重要なことは、この世に生を受けた人々の不幸や罪からの救済において、まず罪の自覚を促し(自己反省)、神の慈愛と包容力に身を委ねながら、自分にこびりついている穢れを贖い、魂の洗濯をして新しく生まれ変わった自分になることを<祓>という。

2.だれを祓うのか?

個人の祓、個人の救済はもちろんのこと、社会全体の祓いを最終的な目的として大祓は行われる。神道において重視されるのはコミュニティ(生活共同体)である。特定の個人だけが救われればそれでよいとは考えない。人の輪、人々の調和を重視する神道では、「みなが等しく幸福になること」を追求する。これは弥生時代以降の水稲稲作文化から受け継がれてきた精神であると思われる。神社がムラの共同生活の中心であり、氏子によって祭が継承されてきた歴史的経緯が、その根幹にはある。ゆえに、コミュニティに暮らしている人々全体の福祉を祓えによって実現していくことが重視される。喜びと楽しみをみなで共有できるようになって、初めて祓は達成されるといえるのである。

3.どのように祓うのか?

まず自分自身の罪障の自覚を神道では促す。禊ぎである。禊ぎとは、本来海や川など水に浸かって心身を清める洗礼である。ただ水に浸かればいいという問題ではなく、自分が犯した罪穢を反省しながら洗礼に臨むのである。

禍津日(まがつび)という概念が神道にはある。人が一生のうちに犯す多くの罪穢が八十禍津日(やそまがつび)であり、中でも最大の罪穢を大禍津日(おおまがつび)という。興味深いことに、神道ではそういう罪穢に対しても<禍津日神>(まがつびのかみ)という神の名を与える。すなわち、神の名の下に、自分自身の行いを徹底的に反省し、また自覚をしていくことから祓いは始まる。すまない、申し訳ない、いけないことを自分はしたのだ、という自覚を促進する心の作業そのものが神の働きによって起こると考えるわけである。

つぎに、罪穢を祓い捨て、本来的な自己を取り戻すための向上心、努力を行う。これを直毘(なおび)という。この場合、まずは自力で最大限の努力をする(大直毘神の生成;おおなおびのかみ)。慢心やわがままを捨て、素直に率直に誠実になって自分をどう改善していったらよいか考えをまとめ、それを実行に移す。これと同時に、目には見えない守護の力もいただくように魂を神に預けることも重要である。つまり、自分の心の内側からわき起こる他力(神の加護)によって祓いは達成される。このときに生成される神が<神直毘神>(かんなおびの神)である。 最終的に、祓いが確立されるには、本人の向上心に基づく強固な意志、不動の信念が必要である。この信念を喚起するときに現れる神が伊豆乃売神(いづのめのかみ)である。

このように、神道では、祓のプロセスに沿って生じる自己反省、振り返り、向上の心理作用のそれぞれに<神>を対応づけ、その神を観念しながら、自己浄化を試みるのが特徴である。心の動き、変容によって神は生成される。ゆえに、神は自分の心の中に住まうといえる。内なる神を観想することで心理的な変容を促そうとする方法論は、れっきとした心理療法であり、祓によって超個的な意識領域の活性化が起こるものと考えることができる。

4.何が罪なのか?

「過ち犯しけむ種種の罪事」とは、秩序を乱し、定められた場から逸脱するような行為を指している。神の側から見れば、神の心から外れ、神の心を乱すような一切の人間の行いが罪となる。

大祓では、さらに犯したかもしれない人間の罪を天津罪、国津罪に分けている。

天津罪の具体例

 • 畔放(あなはち)・・・他人の田の畔を壊して、水を多の外に出し、耕作を妨害すること
 • 溝埋(みぞうめ)・・・畔と畔の間の溝を埋めて田に水を入れないようにして耕作を妨害すること
 • 樋放ち(ひはなち)・・・樋を敷いて谷から田に水を引いてくるのを取り放って、耕作を妨害すること
 • 頻蒔(しきまき)・・・一度種を蒔いた他人の田の上に、再び種を蒔き耕作田を横領すること
 • 串刺(くしざし)・・・他人の田の境界に竹を立てて境界を示し、耕作田を横領すること
 • 生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)・・・人や動物を殺害すること
 • 屎戸(くそへ)・・・神聖な場所を汚すこと
 


このように、天津罪は人が生きていくために必要なもの、糧を奪ったり、生命そのものを絶つような行いを指している。

人の命も、食物も元を正せば天からの授かりもの、神から賜ったものであって、それを勝手に奪うことは罪だというわけだ。

 国津罪の具体例

• 生膚断(いきのはだたち)・・・生きている人間の皮膚を切り取ること
 • 死膚断(しのはだたち)・・・死んだ人間の皮膚を切り取ること
 • 白人(しらひと)・・・血族結婚等によって白子が産まれること
 • 胡久美(こくみ)・・・瘤、腫瘍等ができること
 • 己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪・・・近親相姦
 • 畜犯せる罪・・・獣姦など畜生のような行為をすること
 • 昆虫の災(はうむしのわざわひ)・・・蛇やムカデなど地面を這う動物によって害を受けること
 • 高津神の災・・・雷によって人畜が被害を受けること
 • 高津鳥の災・・・鷲や鷹などによって人畜がさらわれる被害
 • 畜仆(けものたおし)・・・ケモノを呪い殺すこと
 • 蠱物為る罪(まじものせるつみ)・・・まじないをして、正しいものを混乱させる罪

このように国津罪とは人間界に混乱、血をもたらし、人倫に背くことであり、その他天災やアクシデントが含まれている。

いずれにしても、確信犯的、故意による罪はもとより、目には見えない罪、自分自身に意図がなくても他者に損害や不快感を与えるような<自分が犯したかもしれない>罪についても自覚を促し、神の前で贖うべきだと考えられたわけである。

 5.日本の穢れ概念の形成と変容

奈良時代になると、豪族が天皇とのつながりを強め、大きな権力を持つようになった。彼らは、天皇中心の国づくりを進めていくために、中国の律令制度にならって大宝律令を制定した。

律令制度では、土地・人民は天皇のものとされ、人々は良民と賤民(五色の賤)に分けられた。良民には口分田が与えられ、その代償として租・庸・調・納税・労役の義務が課せられた。しかし、賤民にはこれらの義務がなく、税に苦しむ人々の中からは不自由な良民よりも自由な賤民を選択する者が続出した。このような人々のレジスタンスにより、平安時代には次第に律令制度は崩壊していったのである。

ただし、この律令制度によって、戸籍制度や賤民制度は後世にも残ることになった。江戸時代の身分制度では、社会の枠組の外にいる人々を賤民と見なし、被差別民の原型となった。

また、人や動物の死に関わったり、芸能にたずさわったり、放浪したりしている人々に対して蔑視する考え方も江戸時代に拡がっていったのである。

振り返ると、平安時代には、権力は実質的に天皇から貴族に移行した。死や自然災害などの災い(ケガレ)は神の力によって起こるものという考え方が貴族の中にも残っていた。貴族たちは、このような災いを避けるために日常生活のいたるところに様々なしきたりをつくっていった。その集大成が、927年に完成した「延喜式」という今で言う法令である。

この「式」の中には、今でも残っている「忌引き」の規定も見られ、ケガレ概念がこの時代から継承されていることが分かる。

さらに、貴族たちは、祓いをしたり、人や動物の死体を片づけたりして災い(ケガレ)を浄める役割(キヨメ)を蔑視されていた人々に担わせたという歴史もある。穢れた人々=不可触民は、貴族社会においてなくてはならない存在だったというのも歴史的事実である。

要するに、「ケガレ」とは、身の回りの平穏な状態が乱れることを表す概念である。例えば、洪水や地震といった、自分たちではどうすることもできない天変地異、死に対する恐れ、また本来ならば喜びを持って迎えられるはずの出産さえも、人口のバランスを崩すことや常に死と隣り合わせの大変な営みであるため「ケガレ」と考えられていたのである。

代表的なケガレとしては、「死穢」、「産穢」、「血穢」という三不浄があった。この不浄の概念の拡がりの元は、平安時代の仏教の影響も考えられる。

このような「ケガレ」を片づけたり処分してもとの平穏な状態に戻したりする役割やそれを担う人々のことを「キヨメ」と呼んだ。「キヨメ」を担っていたのは、河原者と呼ばれた無税地に住む人々などであった。 当時の人々は、この「キヨメ」を担う人々に対してその能力を尊敬したり、畏れたりしていた。しかし「ケガレ」が人から人へ、ものから人へと伝染していくものという考え方が広がっていくにつれて、「ケガレ」に関わることを恐れるようになり、「キヨメ」の役割を果たしていた人たちとの交わりも避けていくようになった。

6.仏教による穢れ概念の影響

日本に伝来した仏教は、けがれの思想を中心としたヒンドゥー教的色彩を帯びていた。ヒンドゥー教の教理と生活の規範が記されている「マヌ法典」に述べられているけがれの思想を見ると、出産、性交、排泄行為、経血、死などの生命の再生産のために欠くことのできない重要な生の営みを、穢れの強力な源と考えた。


そして身体の部位については、へそから上よりも、へそから下の方がけがれが濃厚であると考えた。したがって、身体の不浄物である脂肪、精液、血液、頭垢、大小便、鼻汁、耳垢、疾、涙、眼脂および汗を扱う医師、助産師、看護師、洗濯屋、理髪屋は<賤業>と見なされた。

最初の殺生禁止の詔勅は天武四年(六七六年)に出され、翌年には最初の放生(捕えられた生き物を買い集めて放してやる儀式)の勅が出されている。

これに伴い、死刑も中止した。 朝廷でも死の穢れが我が身に降りかかるのを恐れていたことがわかる。平安期の後半期になると、戦争や疫病の蔓延がさらに激しくなり、人々の不安が一層広がっていった。

仏教はこの時代の人々の心に響くような教えをやさしく説き、「現世は穢土である」ことを強調し、仏教の教えを守らないものは、死後地獄に墜ち、浄土に行けないと力説したのである。   

参考文献

杉田 暉道 2007 けがれの思想の歴史的観察 日本医史学雑誌 53 (1), 48-49.

井出 真綾・牛山 佳幸 2016 古代日本における穢れ観念の形成 信州大学教育学部研究論集 9,81-93.
尾留川 方孝 2009 平安時代における穢れ観念の変容--神祇祭祀からの分離 日本思想史学 / 日本思想史学会 編 (41), 56-73.







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当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。