スピリチュアリティとスピリチュアル

秦霊性心理研究所

はたの びゃっこ


アロママッサージ、占星術、ヒーリング・アート、瞑想、気功、ヨーガ、整体、様々な癒しやセラピーの技法を駆使する人々の集うマーケットがある。オウム真理教事件(1995年)が発生して以来、宗教やカルトに対する警戒心が高まったが、心の安らぎを何かしら神秘的なものに求める人は少なくはない。既成の宗教の制度や教義にとらわれない「スピリチュアリティ」という言葉も、2000年代以降、使われるようになってきた。

大辞林第三版(三省堂)で、宗教の項を引いてみると、宗教とは、①神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え、②経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系、とある。

そもそも宗教は個人の心理的、霊的な安寧(spiritual well-being)を神仏による救済を得ることで達成することが目的である。その目的に到達するための方法論として非合理的、非日常的な世界との接触、交信を行う呪術、霊術の体系を持ち、神秘的、超越的な体験を得ることで神仏との一体化を果たしていくことが重視される。

これに対し、島薗(1996,2007)は1970年代以降台頭してきた新霊性運動・文化(New Spirituality Movement or Culture)に焦点を当て、それが既成の宗教や新宗教と同等ないしそれ以上の大きなうねりとなってきている状況について論じている。

本稿では、わが国における新霊性運動・文化の隆盛の背景にある社会心理的な要因に着眼し、それが今世紀に入って新しい形で普及してきている現況について俯瞰することを第1の目的とする。

次に、新霊性運動・文化の一部に存在するカルト的要因について分析を行い、「スピリチュアル関心層」の特徴と、スピリチュアリティを学術的な観点からとらえようと試みている研究者との意識の乖離について言及し、新霊性運動・文化の闇の側面、特にカルト的な動きについてどのような対処が求められるのか、その可能性について見ていく。

島薗(2007)によれば、癒し、自己変容、輪廻転生、臨死体験、気功、ヨーガ、瞑想 シャーマニズム、アニミズム、意識の進化、神秘体験、トランスパーソナル心理学、ホリスティック医療、ニューサイエンスなどをテーマにした著作の多くが書店では「精神世界」の棚に置かれていることが多いという。

この類の書物に興味を持つ人には、何らかの精神的探求を行ったり、慰めを得たりしながら、自分がある現代的な文化領域に参与していると自覚しているものが多いと島薗は言 う。それが、「精神世界」である。

島薗によれば、「精神世界」という語が使われはじめたのは1977年頃からであり、最初は、アメリカにおける「ニューエイジ」などの社会現象から輸入されたものが多くを占めていた。それに加えて、日本の精神世界は、禅、密教、道教、神道などの占める位置も重要であるとしている。要するに、精神世界は日本古来からの精神的伝統が今風の形で蘇ってきたというニュアンスが含まれているというのである。

これに対し、スピリチュアリティ(霊性)という言葉は、諸説あるものの広義の宗教性(宗教意識)に関わる言葉として、学術的な概念構築が行われている。しかし、この概念は、組織化され、体系化された宗教(組織)をさしているのではなく、個人に表れた宗教性(行動、意識)をさしていることが宗教との相違点である。

言ってみれば、それは「マイ宗教」、「マイ・ゴッド」を信じることであり、本人はそれが宗教に関係しているという自覚を持っていない場合もある。たとえば、自己変容に関するワーク、セラピー、ヒーリングに興味を持ったり、それを実践している人たちは、それを<宗教>だとは思っていないはずだと、島薗は指摘している。

新霊性運動・文化には、「運動」としての側面と「文化」として側面の両面があるとされている。

①運動としての側面:新霊性運動に参与している人々の相当数が、自らが世界を変革し、人類を進化させていく新しい潮流に参加していると考えている。前途に大きな目標を掲げ、人々の熱意をかき立てて行動しようとする点が、「運動」と呼べる根拠となる。

②文化としての側面:基本的には個人主義的で、個人の実践を重んじ、自己探求的であり、それに関する文化の消費、生産を行う立場になる。それは健康法や娯楽文化の形で表現されることが多い。

具体的には、個人の内的変容や神秘体験を志向するというよりも、ヨーガや気功を学んだり、実践している人の中には、それを単に健康の維持や増進のために利用しているケースも多い。また、心理療法についても、それを心の問題や病の治療法として受容している人もいる。このようなケースは、あくまでも健康が目的の新霊性運動・文化ということになる。

また、現代の娯楽文化=映画、ビデオ、マンガやSF、テレビ・ゲームなどのメディアの中には、実は新霊性運動・文化の中核的テーマが盛り込まれていることが少なくはない。その例として以下のような要点をあげることができる。

1.スタジオジブリのアニメ映画の中には、かなりの程度でスピリチュアルな主題が埋め込まれている作品がある。

2.テレビ・ゲームやオンライン・ゲームには、魔術や呪術がテーマになっている作品が目立つ。

3.オカルト雑誌、占い雑誌、ニューエイジ音楽なども新霊性運動・文化との共通部分が多い。

次に、あげられる新霊性運動・文化の特徴は、既成宗教との関係である。新霊性運動・文化を支持する者の多くは、既成の宗教に対して概して否定的である。特に、それが教団を構成して、「権威」に基づく共同体をもつようなとき、それになじめない。新宗教の場合も、強固な組織や教義を持ち、指導者に権威が集中しているため、それにも違和感を覚える。

これに対し、新霊性運動・文化の支持者は「緩やかなネットワーク」を築くという主張を受け入れやすい。彼らが構築する集団にも中心となる人物がいるが、ネットワークのメンバーに対して権威的な指示を与えたり、支配と服従の関係は形成されない。その場合、ネットワークへの参加と離脱は自由で、定期的な集会や儀礼はなされない。

とはいうものの、実際、商業的な組織が、こうしたネットワークの媒介者の役割を取ることも多い。それゆえ、新霊性運動・文化はその意味において、かなりの程度、組織化された現象であるともいえる。具体的には、営利的な動機に依存して販売される大衆受けを狙った書物やセミナー、グッズなどがそれであり、欺瞞的な疑似宗教として批判の対象になることも少なくはない。それは特に、キリスト教圏など一神教の文化を持つ国・地域で顕著である。

新霊性運動・文化の支持者はこのように、伝統的、教団的な宗教と自分たちは対立するという考えを持っている。それはわが国においても同様であり、伝統宗教や新宗教に満足できなくなった人が新霊性運動・文化に関心を向けるようになるケースは大都市圏で比較的よく見られる。一方で、伝統宗教が衰退したり、根づいていない地域においても、新霊性運動・文化が発展する余地が多いといえるだろう。

しかし、わが国の場合、宗教の側から新霊性運動・文化への批判は意外なほど少ない。それは1つには、新霊性運動・文化の「教え」や「技法」が日本の宗教伝統にとってさほど異質なものではないためである。たとえば、新霊性運動・文化では「自然の中に聖なるものを感じる態度」が好まれるが、これは神道や日本の民俗宗教の特徴とまったく矛盾しないためである。

新霊性運動・文化のシャーマニズム、瞑想や呼吸法、ボディワークにしても、日本古来の宗教的伝統と矛盾するものではない。縄文の昔からシャーマニズムの伝統は連綿と今まで受け継がれているからである。

さらに言えば、武道や芸道、仏教、道教、神道などの修行、精神修養の伝統に対する違和感もなく、こうした心身技法を受け入れやすい素地が日本にはできていると島薗はまとめている。

しかし、わが国における新霊性運動・文化の流れは、島薗(2007)の記述に見られる自己発見、自己成長、崇高なものへの自己超越を目指す求道者といった光の側面だけではない。最近のわが国における新霊性運動・文化の中には、神懸かり、霊懸かり、霊示などの名を借りて、不特定多数の人々の信念や行動に影響を与える「ネットカルト」が登場している。また、宗教とは一見無関係に装いながら、事実上のカルトとして活動しているサークルも存在する。

現代の日本人は宗教そのものに対する関わりが非常に薄く、冠婚葬祭や人生儀礼的な所で、部分的な関わりしか持っていない人が多数を占める。そのことが宗教やスピリチュアリティに関する知識の不足を促し、カルトに対する無抗体状態を作り出しているように思われる。

たとえば、読売新聞社が実施している年間連続調査「日本人」(2008)によれば、日本人で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上る。宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。 ところが、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

このことから、多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いといえる。

さらに、世間で言うところの「スピリチュアル」に関しては、女性27% 男性は13%が関心を持っていることも明らかにされた。調査対象者全体の傾向としては、前世や守護霊、オーラなど、目に見えない霊的なものとのつながりによって心の安らぎを得る「スピリチュアル」に「ひかれる」と答えた人は21%、「ひかれない」は75%だった。年代別では30歳代で「ひかれる」が32%に上った。これに対し、70歳以上では14%に過ぎなかった。このことから、いわゆる「アラフォー世代」の女性が新霊性運動・文化に関心を持っていたり、その原動力になっている可能性が指摘できそうである。

我々には、「人生の意味と目的」を探求し、「自分が死んだ後、どうなるか?」について知りたいという欲求がある。これが霊的欲求(Spiritual Needs)である。霊的欲求には、①なぜ、自分は生まれてきたのか?②自分は何のために生きているのか?③生きていることにはどのような意味があるのか?④自分が死んだ後に何が待ち受けているのかを知りたい、といった要素が含まれる。

現代日本人にとって、こうした霊的欲求を満たす場所が宗教ではないとすれば、宗教以外の場を求めて迷う人々が出てくる。これを樫尾(2007)は「宗教難民」と呼んでいる。樫尾の言う宗教難民には、①以前は何らかの信仰や宗教を持ってはいたが、それに限界を感じて辞めた人、②宗教には救いの力がないと確信した人、③心の傷やネガティブな生活事象に悩む人、④<自分探し>や<癒し>を求めてさすらう人などが含まれる。その受け皿になっているのが、新霊性運動・文化だといえる。新霊性運動・文化には、宗教のような組織的な縛りや締め付けも少なく、比較的自由に流動的にあちらこちらを渡り歩いて、自分に合ったものを探すことができるからである。その一方で、新霊性運動・文化にはカルトの温床になりうる可能性を持ったものも少なくはない。

次に、インターネットと「世俗的スピリチュアル」との関係について見ていこう。渡辺・河野(2007)は、インターネットを利用している男女756名(25歳ー44歳)を対象に調査を実施している。その中で信仰や宗教の有無を基準に、まず4つの類型を定めた。


①信仰者・・・現在、信仰を持っている(10%)

②関心者・・・信仰は持っていないが、宗教には関心がある(12%)

③無関心者・・・信仰は持っていなくて、宗教にも関心がない(56%)

④嫌悪者・・・信仰は持っていなくて、宗教には嫌悪感がある(22%)

その上で、対象者のインターネットの利用状況を質問した結果、参加しているコミュニティシステムのコンテンツを週1回以上チェックしているのは、「関心者」の54.4%が比較的ネットへのアクセスを頻繁にしている傾向が見られた。また、参加しているコミュニティシステムに月1回以上書き込んでいるのは、「関心者」では45.6%と高く、逆に「嫌悪者」では29.2%と低いことも見いだされた。

さらに、人間関係のネットワークについての質問で、「様々なタイプの人と幅広く付き合う方だ」と答えた人は、「信仰者」(50.0%)、「関心者」(42.2%)、「無関心者」(34.8%)、「嫌悪者」(28.6%)の順であった。また、「話題や考え方を自分なりに工夫して表現する方だ」と答えた人は、「関心者」(54.4%)、「信仰者」(50.0%)、「嫌悪者」(42.9%)、無関心者(37.0%)という結果が見いだされており、宗教=「口べたで付き合いの狭いオタク」というイメージに反する結果が出ているといえる。

つぎに、インターネットの有効性に関する認識について、「情報を得たり、意見を交換するのにネットは有効な手段だと思いますか。」という質問に対して、「信仰や宗教に関する情報」が有効だと認識している人は、全体ではわずかに4.8%だった。しかし、「関心者」では14.4%と特に高くなっており、「信仰者」の中でも布教活動の経験を持っている「布教的信仰者」になると、23.5%と高い。  以上の調査結果から、宗教には関心があるものの、教団や組織の中で語り合う機会のない「関心者」は、リアルなコミュニケーションの代わりに、インターネットでのバーチャルなコミュニケーションに対するニーズが強いといえる。また、布教的信仰者の場合は、教団内でのリアルなコミュニケーションにとどまらず、インターネット上でも積極的にコミュニケーションをする意向を持っていると言える。


渡辺・河野(2007)の分類で言うところの「関心者」とは、言い換えれば「スピリチュアル関心層」であり、新霊性運動・文化との親和性も高いグループだと推測できる。というのも、彼らは特定の信仰は持っていないが、宗教に関心のある人々を指しているからである。彼らの場合、信仰や宗教に関する情報の交換、取得をインターネットを通じて行っていることが最大の特徴である。スピリチュアルなコミュニケーションをインターネット上で交わすことで、霊的欲求を満たそうとしている姿が見て取れる。

また、彼らには信仰や宗教に関する情報・意見の交換をすること自体に彼らは価値を見出している傾向もあり、そういう場がインターネット上にあれば、これを積極的に活用していこうとする姿勢がうかがえる。逆に、インターネット上での不毛な発言者・情報源は無視し、価値ある発言者・情報源を選んでみる人は、「関心者」にもっとも多く(47.8%)、情報の選別に敏感である。

こうした「スピリチュアル関心層」の存在は、一部のネットカルトが発信しているような情報の選別眼を持っているように思われる。その意味で、ネットカルトからの情報発信に対して一定の免疫力を持っているグループではないかと推察される。ただし、より注意してみると、彼らが何を「価値ある発言者・情報源」と見なすかどうかはあくまでも個人の主観的判断によるものである。また、新霊性運動・文化には、従来の伝統霊性に対するカウンター・カルチャー的な性質を持っている。したがって、「スピリチュアル関心層」の一部には、宗教の既成概念にとらわれない、あるいは先哲たちの名言をパッチワーク的に編み込み、伝統霊性に真っ向から対立する主張も取り入れたネットカルトの矛盾に満ちた「教義」を「斬新で価値あるもの」と見なしてしまう可能性も指摘できるだろう。

わが国におけるスピリチュアル(ないしスピリチュアリティ)に関する言説分析に関しては、堀江(2007)をあげることができる。すなわち、心理療法、相補・代替医療(CAM)、スピリチュアルケア及び宗教的実践に携わる人々の間で使われている「スピリチュアリティ」という言葉には、おおよそ以下のような意味合いが込められている。

①気づかれていなかったことへの気づきとそれによる成長や成熟のプロセスに関わるもの 

②個別の宗教的崇拝対象にこだわらず、見えないつながりを心身の全体で感じ取ることに価値をおく 

③宗教の核心部分にあたるが、組織宗教では形骸化したり、表現が抑制されたりする(と考えられているもの)

④「神」や「聖なるもの」などの概念と異なり、個々人の内的生活や世俗生活の中でも発見され、探求される。

スピリチュアリティを研究する人や学会の中では、上記の要素に関するコンセンサスは、ほぼ形成されているといえる。そして、スピリチュアリティ関連学会では、学術的な概念としての「スピリチュアリティ」を前面に打ち出し、世間で言うところの「スピリチュアル」との差別化を試みようとしているように見受けられる。それが、スピリチュアリティ関連学会がアカデミックな世界での「社会的な認知」を得るための手段でもあるためだ。

ところが、わが国の場合、「無宗教の宗教性」が社会的には優勢な宗教意識になっており、特定の宗教や信仰を持たないにしても、現世利益的な宗教行動(初詣、お盆の墓参、お札やお守りなどの宗教グッズなどに代表されるように)は今もなお盛んだし、「心霊的なもの」に関する皮相的な信念は大衆文化の中に根づいていると言ってもよいだろう。

堀江(2007)によれば、スピリチュアリティ言説は米国の心理学的思想の輸入によって始まったと言う。それが我が国において受容されるにつれて実質的には伝統への回帰と日常生活の保守的な肯定という意味合いに変化していったとしている。

それがリンクする重要なキーワードでもある「癒し」は本来の自然治癒力の活性化という意味合いから、現世利益を促すキャッチフレーズとなって消費文化を構成するようになっている。それが文化としての新霊性運動・文化である。

また、「スピリチュアリティ」は研究者の間では「霊の排除」という意味合いを込められて使われはじめたものだが、世俗的なレベルではむしろ「霊」への関心がまったく失われておらず、霊信仰との決別を果たすことはできなかったと堀江(2007)はいう。

逆に、オウム真理教にまつわる一連の事件以降、マスメディアでは「スピリチュアル」という言葉に「心霊的なもの」という意味づけがなされ、従来型の霊能者とはまた異なったスタイルを取る「スピリチュアル・カウンセラー」という職種が注目されるようになり、スピリチュアル=霊的という意味合いはいっそう強化されたと見るべきであろう。

一時期、マス・メディアを通じて流行した「スピリチュアル・カウンセラー」については、異論・反論も多々あった。しかし、心霊主義(spiritualism)という文脈がわが国においても江戸時代からの民俗宗教の主要な部分を占めている流れもいまだに存在する。それゆえ、大衆が素朴に信じている「霊」を闇雲に否定し、それに対する関心に正面から向き合い、真摯な態度で応えていく役割を果たす者がスピリチュアリティ研究者から出てこなければ、誰も「知識人」の言うところのスピリチュアリティなどには見向きもしないだろうというのが、私見である。

筆者の場合、加持・祈祷の現場での実践にも関与しているため、世間一般のスピリチュアル=心霊(神霊)的なものに関する信仰とそれにまつわる現世利益的なニーズは絶大なものがあることを肌で感じる機会が多い。そのため、心霊主義的なものをスピリチュアリティから外して語ることは、研究者でもあり霊的支援者でもある筆者にとっては不可能な業なのである。

わが国においては、縄文・弥生の昔から素朴な精霊信仰は継承されているし、奈良・平安の時代からの怨霊、悪霊、生霊、動物霊などの信仰も今なお健在である。それは筆者が加持・祈祷の文脈で活動するようになってから、強く実感している部分でもある。

以上の論点をまとめていこう。まず、「スピリチュアル」という言葉を使うときに、それを「霊信仰」と切り離して論じることは不可能に近い。それを抜きにスピリチュアルな癒しやケアを論じることは、知識人や文化人と呼ばれる人々、そして伝統的な教義、教理を頑なに守ろうとする宗教者にとっては歓迎されるべきことであっても、大衆にとっては「どうでもいい事柄」なのである。

これらの議論より、スピリチュアルと心霊主義との密接な関係、新しい民俗信仰としての「スピリチュアル」を排除し続けて、スピリチュアルケアやスピリチュアルな癒しを論じていこうとするならば、それは先の見えた袋小路でしかない。湯浅(2003)もスピリチュアリティ研究の発展プロセスにおいて、スピリチュアリズムの歴史との関係を指摘しており、19世紀の動物磁気説、20世紀初頭に流行した心霊研究、これと絡み合うような形で起こってきたフロイト、ユングらの深層心理学などの歴史と動向が、現代のスピリチュアリティ問題にも受け継がれていると述べている。


「スピリチュアル大衆文化」に関する理解と時代の潮流を読み解くためにも、知識人や文化人、宗教者は、逆にスピリチュアリズムについても学習を深める必要もあるのではないだろうか。スピリチュアリティを論じるにあたって、特定の宗教、宗派の教義に依拠することははもとより、西洋近代的発想を絶対的な価値基準と見なす根拠はない。むしろ、そのらち外に置かれてしまったものを見直すことが、新霊性運動・文化には本来ある。したがって、スピリチュアリティ研究・実践に携わる人々にも新霊性運動・文化の持っているスピリチュアリズム的な側面に先入観を伴わない真摯な態度で向き合うことが求められているのである。

これまで述べてきた事柄の総括をして本稿を締めくくることにしよう。まず、インターネットとスピリチュアルとの関係から言えることとして、「スピリチュアル関心者」にはインターネット上での霊的欲求の充足だけでなく、リアルな関係を通した情報の交換の場が、特定の宗教や信仰に偏ることなく提供される必要があるのではないだろうか。

あるいは、インターネット上でも宗教的なバイアスの少ない、統制の効いた場で情報の交換が行われる場の構築も必要だと考えられる。このように、自由にスピリチュアリティについて意見や情報の交換をする場を提供し、スピリチュアル関心層に向けてワークショップを開催したり、カルト脱会問題や対宗教安全教育などに関するアクション・リサーチ的な取り組みを行う責任がスピリチュアリティ関連学会にはあるのではないか。このことから、①子ども(幼児、児童、生徒)のスピリチュアリティ研究と教育実践、②スピリチュアリティ関連学会による社会人向けのセミナーやワークショップ、③スピリチュアルケア提供者である医療従事者、教育関係者、対人援助職者自身のスピリチュアリティ意識と技能向上のためのカリキュラム、③宗教者自身の絶え間ない精神的修養(修行)などが必要であると考えられる。


参考文献 

堀江 正宗:『日本のスピリチュアリティ言説の状況』.安藤治・湯浅泰雄(共編):『スピリチュアリティの心理学:心の時代の学問を求めて』.せせらぎ出版,大阪,35-54,2007.

樫尾直樹:『なぜ今スピリチュアリティなのか?-宗教学の最前線』日本社会心理学会第51回公開シンポジウム:『スピリチュアリティ研究の最前線』,愛媛大学,2007. 

島薗進:『精神世界のゆくえ-現代世界と新霊性運動』東京堂出版,東京,1996.

島薗進:『スピリチュアリティの興隆-新霊性文化とその周辺』岩波書店,東京,2007.

渡辺光一・河野昌広:『価値志向性が情報コミュニケーションに与える効果の実証的研究』日本社会情報学会学会誌,第19巻,1号:29-44,2007.

読売新聞社:『年間連続調査・日本人』2008年5月30日付,東京朝刊.

湯浅泰雄(監修):『スピリチュアリティの現在-宗教・倫理・心理の観点』人文書院,京都,2003. 

秦霊性心理研究所

当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。