古代呪術の歴史と真理(その四)

秦霊性心理研究所

所長 はたの びゃっこ


海神信仰

 次に、海神信仰について見てみよう。北部九州には海神を祭る神社が多く、それは縄文、弥生、古墳の各時代においてこの地域が中国大陸、朝鮮半島からの人的、物的交流の玄関だったことから定着した信仰だと言える。

 縄文時代からすでに中国から丸木船に乗って九州地方に上陸してきた人々がいた。数的には少なかったが、漂着した人々や自ら船で海を渡ってきた漁民たちである。九州には潜水漁法を行う海人が住み着いていった。

 ついで、縄文晩期から弥生時代にかけて、戦乱の中国を逃れ何波にもわたり難民が日本列島に渡ってきた。その上陸地点は、主に北部九州(現在の長崎県、佐賀県北岸、福岡県北岸)および山口県だと推定される。これら政治的亡命者や戦争難民がやがて倭国を形成していった初期の渡来系弥生人である。1つは、中国の山東半島から朝鮮半島南部を経由して北九州に移動してきたグループがいる。それ以外の渡来ルートとしては、長江流域、江南地方から黄海を渡って九州にたどり着いたグループ、華南地方から台湾、琉球諸島を経て九州南部にやってきたグループなどがいる。

 いずれにしても、大陸や半島との交通は必然的に海路をたどる以外にはないわけで、航海術が未熟だったこともあって、船の漂流や沈没は当たり前のように起こっていた。暗礁に乗り上げたり、暴風雨や高波に悩まされたりしたときには、波風が収まるようにカミに祈りを捧げて、ひたすら祈るしかなかった。

自然の猛威にさらされたとき、彼らはこれをカミの怒りだと解釈した。荒れ狂う海を見て、その背後に神の存在を感じて恐れおののいていた姿が浮かんでくる。それが海神信仰になっていったものと思われる。

海の神は 1) 海上交通、 2) 海の幸、 3) 漁労生産 にまつわる信仰が基盤になっており、海自体を神格化したワタヅミの神(海神)と島を神格化した島神に分類できる。ただ、島神は島に寄り憑いて支配し、同時にその周辺の海域にも影響力を持つ神と考えられるもので、海神と同様な特性を持った神と考えることもできるため、以後一括して論じる。

海神祭祀の方法

 ①海神投供・・・海中に品物を投げ込んで神に捧げる祭祀法


 ②陸上祭祀・・・海神を島や岬などの陸地において祭る方法

 ①の事例には、紀貫之の「土佐日記」の中で、935年に紀貫之が土佐国司の任を終えて帰京するとき、大坂、住吉沖合にさしかかったときに風が強くなって船が進まなくなった。船頭が住吉神の怒りにふれているので、供え物を海に投げ込むようにと言うので投げ込んでみたにもかかわらず一向に効果がなく、それならと貴重品の鏡を投げ込んだら途端に風が鎮まって、無事に着岸できたという逸話が見える。

 そして、供え物をしても波風が収まらないときには、最終的に人間も投げ込んだことが記録に残っている。

 「続日本紀」には763年、渤海国から遣唐留学生達を乗せて帰国の途中だった船が暴風雨にあおられて漂流したときに、船頭が同乗していた婦女子と僧、合計4人を次々に海中に投げ込んで殺害したことが述べられている。つまり、海神への人身御供の風習があった。

 ②の事例には、宗像大社の沖ノ島や対馬の海神神社、和多都美神社も該当する。広島の厳島神社も瀬戸内海の海上交通の守護として宗像女神を祭っている。

 さて、対馬の海神祭祀だが、弥生時代の中心地だった仁位の和多都美神社の祭神は海神豊玉彦、豊玉媛であり,これに鵜茅葺不合(うがふきあえず)と磯良が合祀されている。また、和多都美神社のある場所は、海幸彦・山幸彦の伝説発祥の地であると言われている。

 これに対し、海神神社は中世以降は八幡宮の名称を持っており、神宮皇后が朝鮮との戦の折りに旗八流を納めたという伝説から八幡神の本宮の位置づけを持っていた神社である。明治になってから海神神社に変更になった。祭神は豊玉媛で、彦火火出見、鵜茅葺不合が合祀されている。

 ここで両神社の祭神について解説しておこう。 彦火火出見(ひこほほでみ)は、記紀神話の男神で瓊々杵の御子であり、末弟である。稲穂がたくさん出てくるカミ、産屋の火の中から出現したカミでもある。豊玉媛と結婚する。その子孫は隼人族<華南・南方系海人族>であるとされる。

 鵜茅葺不合は,彦火火出見と豊玉媛の間に生まれた御子で、神武天皇の父神。彦火火出見が海神宮から帰国した後、母豊玉媛が御子を産むべく夫のもとを訪れたとき、海辺に鵜の羽で屋根を葺いた産屋を作ろうとしたところ、葺き上げる前に生まれたので、このように命名された。母系家族の中で育てられ、養母を妻として迎えている。母系家族は、前述した中国の河姆渡文化の家族形態でもあった。 さらに注目されるのは、海人族の祖霊神、磯良である。伝説では磯良は身体中に海草が生え、顔はイボだらけ、カキもへばりついているという海獣である。

 この磯良神を祀ったのが海人氏族、安曇氏である。安曇氏は水軍をバックに持ち壱岐を拠点として北九州から近畿に進出し、ヤマト王権のもとで活躍し、尾張、信州にも進出していった氏族である。信州には安曇野という地名があるが、ここは海人族安曇氏が移住して開拓した土地だといわれている。

 祭神を見る限り、中国渡来系の人々が祀った<海人の神>が対馬には多い。弥生時代に対馬に定住していた人々は、朝鮮と北九州を往き来して交易をしていたことが史料にも残っている。

 和多都美神社に話を戻すと、霊石の磯良恵比須、年篭には特徴的な三柱鳥居が立っていた。この種の鳥居は京都太秦の木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)と同じ形式である。ここに対馬と京都を結びつける接点がある。

 木嶋坐天照御魂神社の祭神は天御中主、大国魂、穂々出見、鵜茅葺不合。後者二柱の神々は対馬の和多都美神社、海神神社と共通する祭神である。

 両者を結ぶ線は朝鮮半島からの渡来人、秦氏である。木嶋坐天照御魂神社のある嵯峨野一帯は、5世紀以降朝鮮半島から渡来した秦氏の勢力範囲であり、製陶、養蚕、機織などのすぐれた技術者集団がこのあたりに入植していった。日本書紀には、応神天皇の時代(270-310)、秦氏の祖、弓月君が百二十県の人民を引き連れてやって来たが、新羅に妨害されて動けなくなって加羅に留まっているという。そこで朝廷は葛城襲津彦を遣わし、弓月君を加羅に呼んだ。しかし三年たっても襲津彦は日本に戻ってこないので、さらに新羅国境に兵を送ったところ新羅王は恐れて妨害をやめたので、弓月君が襲津彦とともに渡来したとある。

 蚕ノ社という名称は織物の神、蚕養神を祀ることからついたものである。古来より祈雨の神としての信仰も篤く、巨樹が繁茂し、今でも清泉が湧き出でる場所に立地している。水神である龍(蛇)神との関係も指摘できる。


 この地域一帯を取り仕切っていた指導者は、政治的指導者であり、祭祀者であり、医療者、技術者でもある人物だった。バンダナのようなものを頭に巻き、色彩の派手な中国風の服装をしている人物が、この地の土着の人々にさまざまな知識を教えていた。

 たとえば、水に関する知識。井戸を掘る技術を教えている。井戸からわき出る泥の混じった水を濾過する装置を作らせている。粒の大きさの異なる小石や砂を段にして敷き詰め、泥水を清水に変える装置である。また、そうして得た水を煮沸させて飲用する知識ももっていた。こうした水利学的な知識は飛鳥京の遺跡にも認められることが飛鳥京発掘調査でも分かっている。

 海の向こうから来た人々は、土着の人々の生活を向上させる知恵を次々に伝授し、この地を豊かなものに変えていった。宗教的な面では、彼や彼の一族は火に関する信仰を持っていた。火を神聖なものとしてあがめる信仰である。確かに、古代朝鮮には竈信仰があり、朝鮮よりの渡来人が火を神聖視していたことは確かである。この信仰は中国が発祥のようであり、漢代の文献にも出てくる。

 対馬と京都を結ぶ線は、渡来人の交易ネットワークを動かしていた秦氏の信仰と密接な関係があるものと思われる。秦氏(秦族と秦人)については、別稿において論じることにする。


 

秦霊性心理研究所

当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。