古代呪術の歴史と真理(その二)

宗教的心情の起源


秦霊性心理研究所

所長 はたの びゃっこ


 つぎに、宗教的心情の起源について論じる。神仏に対する信仰とは、自分を越えた大いなるもの,神仏とでも呼べるような宇宙の働きに対して,畏敬や崇敬の念を持つことから始まる。畏敬の念や崇敬の念は、わたしたちの祖先がまだ大自然の脅威にさらされて細々と暮らしていた頃から培われてきた原始的(素朴な)感情である。


  生きること自体が大変だった時代を振り返ってみればわかるように、大昔の人々は必死になって生きていたし、自然の猛威の前にただ呆然と立ちつくすだけだった。天災はカミの怒りであると素朴に感じたし、豊かな実りはカミが与えた恵みであると素直に信じ、喜んだ。


 生命を育み、維持することの尊さを古代人は知っていた。族長自身が霊媒だったり、族長の参謀として必ずシャーマンがいたりして、一族の命運を掛けて住むべき土地、農耕にまつわる天候占い、精霊との交信に基づく自然の調整、病気治し、カミを鎮め、カミを奮い立たせる儀礼を行っていた。古代人は現代人よりも感覚が鋭敏であり、超感覚的知覚(透視、テレパシー、予知)も強かった。自然観、宇宙観もまったく現代人とは異なっていた。

 当時の人間は森羅万象に隠れ身のカミの気配を感じており、いつもカミと共に生きているという実感を持っていた。自分たちが喜べばカミも喜ぶ、悲しいとき、辛いときには気持ちを切り替え、奮い立たせるために大騒ぎをする。自然という名のカミと苦楽を共にしていた。自然に対する畏怖の念。自然に生きること。いつ気が変わるかもしれないカミに翻弄されながらも、精一杯生きてきたのがわれわれの祖先の姿なのである。

 このように、大昔の人々はいつも自然=カミの振る舞いに一喜一憂しており、ビクビクしながらも精一杯意地を張って生きていた。そういう暮らしの中で、自然に私たちは宗教的感情(心情)を抱くようになっていった。

 ここで、古代日本人の信仰について押さえておこう。


1.縄文時代(約1万2000年前~2500年前頃)⇒精霊信仰、特に自然霊に崇敬の念をもつ。天体信仰(太陽、月、星)、自然の猛威を神の祟りと見なす。蛇信仰。シャーマンの活躍。


2.弥生時代(紀元前5世紀 ~3世紀半ば)⇒縄文以来の精霊信仰(特に穀霊、地霊信仰。農耕との関連で)を基盤として祖霊信仰(祖先の霊をカミとして祀る)が上書きされる。部族、共同体の神。共同体を守るための呪術の発達。中国、朝鮮からの渡来文化の影響を受ける。


3.古墳時代(3世紀半ば ~7世紀半ば)⇒精霊信仰、祖霊信仰に加えて、首長霊信仰(ヤマト王権の大王、国家的なカミ)が成立する。30余のクニの連合王権であった邪馬台国からヤマト王権を中心としたクニができ、次第に大王を中心にした国家の体裁が整う。陰陽思想の強い影響を受ける。


 このように、信仰の対象が上積みされていって、やがて神道の原型になっていった。


 弥生時代以降の日本人(倭人)は今から7000年前に長江下流域で栄えた河姆渡(かぼと)文化の後裔であろう。河姆渡文化は中国最古の稲作定住文化である。河姆渡人は高床式住居に住んでおり、その後に続く「倭族」と共通する宗教的習俗を持っていた。


 河姆渡人の信仰には以下のような特徴が認められる。


1.神が天下るときの乗り物として鳥を信仰し、鳥形飾りを建物の棟の上に飾った。これが神社の鳥居の原型となる。


2.葬制として、死者の頭を東の方角に向けて葬った。東方重視は日本の古代祭祀も同じである。


3.女性の墓に副葬品が多い。 家族・集団などが母方の系統によって形成されている血縁組織=母系制。

4.東方海上の彼方に死後の安楽浄土があると信じた。これは春秋戦国時代以降の中国人にも東方楽土の信念として受け継がれていった。紀元前3世紀、中国を統一した秦の始皇帝は、斉人の徐福(徐市)に命じて、海の向こうにあるという三神山の仙人の国を探検させる。徐福は、童男童女数千人を従えて来航し、日本に定住した。【隋書】には、隋の使節が609年倭国(やまとのくに)に派遣されたときに中国人の居住地<秦王国>を通るとある。今の宇佐か周防と推定される。


5.太陽に対する強烈な畏敬の念を持っていた。


6.食人習慣があった。釜の中に魚の骨といっしょに嬰児の骨が混ざって出土している。中国古伝に、最初に生まれた子を食べると次々に子が産まれる、という風習の国ありとの記述がある。かれら河姆渡人やその子孫が九州に移動していった可能性は十分にある。弥生時代のずっと前から、こういう人々が住み着いて日本人のルーツになったと考えられる。それが海人族(あまぞく)である。対馬はそういうもっとも古い日本の雰囲気を今に伝える島である。


 河姆渡文化は良渚(りょうしょ)文化へと受け継がれる。これは紀元前3300年頃から2200年頃まで続く。良渚人は大地の神を信奉し、三種の神器を用いて祭祀を行った。彼らの祭祀は人間の犠牲、すなわち生贄を捧げるものであった。

  日本人とも共通する倭族の特徴強烈な太陽崇拝、稲作、高床式住居が倭人の特色であり、河姆渡人はその要素をすべて持ち合わせている。その流れを汲む呉人や越人が次々に移住し、列島は呉越同舟状態で弥生時代へ突入する。

  故国中国では国を違えた部族が次々に列島に移住してきた。倭人たちは部族間の闘争、交易の利権争いに明け暮れながら、次第に国家としての体裁を整えるようになっていった。

  水稲稲作は縄文時代と弥生時代を分かつ農業技術である。水稲栽培が日本に伝来してきた経路については、中国大陸から直接、または中国の華中から朝鮮半島を経由して伝来したと考えられる。

  より具体的には、九州北部の玄界灘沿岸地域において、縄文時代晩期後半期(紀元前500-300)に発達した水田稲作が行われていたことは事実である。この時期、すでに北九州のみならず、近畿、山陽、南九州など西日本で水田稲作は広がりを見せていた。

  その担い手は渡来人であった。弥生人のルーツは基本的に渡来人である。最近の人類学的知見に依れば、縄文人から弥生人への遺伝学的形質変化は渡来人との混血による急激な変化であったと考えられている。

 渡来系弥生人は家族単位で数艘の船に乗り、数世代にわたって断続的に日本列島にやって来た。その背景には中国大陸での戦国時代の乱と流民の発生、それに連動する朝鮮半島での混乱がある。中国や朝鮮の王家や王家に仕えていた人々も亡命してきている。また、国境を越えて交易を行った華僑(商人)の渡来も見逃せない。さらに、灌漑、土木、金属器製造技術を携えた技術者集団が大陸や半島から渡来してきたものと考えられる。

  次に、縄文時代の日本の原始信仰を色濃く残している沖縄、奄美諸島の習俗、伝説の分析からは、次のような信仰の特徴を見いだすことができる。

1.古代日本人の思考:彼らは、自分の身の回りで観察できる現象、事物からの連想、類推によってカミ、自然、人間を理解しようとした。すなわち、彼らは太陽の運行、人の生死、植物(穀物)の実りと枯死などを信仰、神話、祭りに結びつけていった。

2.太陽の運行:原日本人のなかでも南方に起源を持つ「海の民」は太陽に対する畏敬の念を持っていた。南の島で見える太陽は、朝日は暁に咲く大輪の花にたとえられ、水平線の彼方に沈む巨大な夕日は島を瞬時に闇をもたらす畏怖を喚起した。沈んだ夕日は「太陽の洞窟」を通って再び東方に新生すると信じられた。この信仰が、その後中国で形成された道教、陰陽思想と合わさって、神道の源流となった。

3.方角の重視:沖縄地方では、東をアガリ、西をイリと呼ぶ。その東方のはるか彼方に常世の国、根の国、<ニライカナイ>がある。ニライカナイには太陽の昇る場所、祖先神、火の神、水の神など神々の居場所があり、一切の生命の種の根源となる場所であると考えられた。

4.人間と太陽を結ぶ連想:太陽は東から昇る。人の種も東方、常世の国から渡来する。太陽は毎日新生と消滅を繰り返し、輪廻転生する。人間も同様に輪廻転生し、つまりは太陽も人間もこの世には常在しない(無常)。輪廻転生の間には「穴」が想定される。太陽の場合は「太陽の洞窟」、人間の場合は生まれるときには「母の胎」、死んだあとには「墓」という疑似母胎の穴に籠もるというように考えられた。

5.神の概念:古代日本人にとって目に見えず形もないカミは重大な存在だった。カミは基本的に「隠れ身」の存在としてとらえられた。しかし、他方で彼らはこのカミを抽象的なもの、観念的なものとしてではなく、具象、目の前の現象や事物の中に見いだそうとした。そのカミの元型が祖神(オヤガミ)であり、同時に穀神(農耕神)=宇賀神としての蛇であった。

  

 宇賀神というと稲荷神もそうであるが、原始信仰においては水の神、山の神である蛇がその神の顕現として崇拝された。

 蛇はその形から男性性を、脱皮するその生態からは出産=女性性が連想され、古代日本人は蛇を男女の祖先神として崇拝したのである。さらに、祖霊が住まう山(神奈備)を蛇がとぐろを巻いた形として連想的にとらえ、三角錐の山を拝むようになった。大和の三輪山がその一例である。  


参考文献


鳥越 憲三郎  2020 倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本  角川ソフィア文庫

  


秦霊性心理研究所

当研究所は、霊性概念に関する東洋の叡知と西洋の心理学的アプローチを統合し、私たちの心の安寧と魂の成長に寄与する実践的方法を探求しています。意識 霊性 呪術 シャーマニズムに関する評論、および加持祈祷を通じた実践活動を展開しています。